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2006年9月 4日

等流法身

 昨日お台場のホテルへ行ったら、結婚式が数組あった。もう夏は終わった。
 
 昨年、モンゴルへ行き、モンゴル帝国の首都であったカラコルムで一週間ほど過ごした。そこから車で8時間のところに温泉があって、温泉に入りに行こうとドライバーのゾルゴさんとゲルを出た。モンゴル男のすごいところは、食料があるときにしっかり食べるということだ。例えばその日だと朝しっかり食べておく。場合によっては晩御飯も食べられないかもしれないから晩御飯の分もしっかり食べておけという。乾燥しているから水もそうだ。食べられるときに食べておけばよしとする野生の体が未だに残っている。こういう状態だから車にはもちろんGPSなどない。大きな道は地図にあるが、道なき道をすすむ。確か一度来たことがある。谷を二つ越えたところだと言う。川を渡る。谷を越える。まさにそういう能力が人には備わっているのだ。
 温泉に行く途中、カラコルムから2時間ほど行ったところにドライバーのゾルゴさんのお母さんと長兄が夏、家畜のための野営をしている場所へ立ち寄った。馬乳酒、石のように硬いチーズで客人をもてなす。ゾルゴさんのお母さんは熱心なチベット仏教ラマ教信者だ。ラマ教は密教であり、大日如来を宇宙の中心に据えている。このとき、来年の夏、空海をやろうと心に決めた。そしてこの夏、本やお経の解説書を揃え、読み込んだ。とても不十分な状態なので、語ること自体おこがましいが、四種法身(ほっしん)についてお知らせしたい。大日如来はあらゆるものに変身し、本来我々の中に備わっている仏心(宗教心)に働きかける。釈尊が宇宙は飢餓や老病、苦死をあたえると感じたのとは違って、むしろ大日如来は知恵や慈悲を与えてくれるものとしてこの宇宙を見ている。釈尊を越えるものとして大日如来がある。大日如来は主として四種類の部類の姿に身を変えながら、生来授かっている我々の知恵や慈悲の心をこの宇宙に生かすようにしてくれている。これが密教である。カテゴリーの一つ目は「自性法身」、大日如来そのものの姿である。二つ目が「受用法身」それは宝生や不空といった如来の姿。それから人の姿で人間に教える「変化法身」。そして我々の身のまわりにあるものに変わって教える「等流法身」、というのが密教の考え方である。「色があっても見る気がなければ無色に同じ」この見ようとする心の働きがなければ、この四種の法身を感じることができない。この心の働き、識のことを「智」と言っている。ヨガはヒンドゥー教の宇宙と自己の中にある宇宙を一致させ、「不ニ」すなわち全体の宇宙の理と自分の中にある「智」を一致させていく。これが瑜伽(ゆが)であるが、密教もこれによって感じ取るのである。
 花にとって大切なのは等流法身についてよく知ることで、動物を見て心が和むように、花を見て美しさに感嘆するだけでなく、心が澄んでくるように、宇宙である大日如来がお姿を変えて我々に法を説いてくださっているとしている。現に人はそのような心持ちで花に接していくからこそ、我々の仕事の意義があると言えよう。花き業界も成熟産業といわれる。花は当たり前のものになったから、好きな人は買ってくれるが、そうでない人はあっても見ようとしないし、買おうとしない。この「智」、見ようとする心、買って飾ろうとする心をどのように開いてもらうかが我々の課題である。

投稿者 磯村信夫 : 2006年9月 4日 00:00

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