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2007年8月20日

もう一つの特攻隊

お盆が終わり、今年の終戦の日も過ぎた。盆の前後に藤原正彦氏の「日本人の矜持―九人との対話」を読んでいて、そのうちの一人である五木寛之氏との対話の中で五木氏が「その女性は言わば特攻隊員ですから。自分から飛行機に乗って死んでいった若い人たちの話にも感動しますが、嫌がるのを無理やり周囲から押し出され、泣き泣き出て行った人々も特攻隊員。・・・」と話している箇所に出会った。僕の記憶の中の女性たちはそうだ「特攻隊員」であったのだ。僕はようやくどう彼女たちを鎮魂すればよいか、どう感謝すればよいか、その方向性を見出すことができた。これで東の方へ向かい大森駅から素直に手を合わせることができる。

僕の知っていることはこのようなことだ。大田花きの前身の卸会社のうちの一つ、大森園芸は1932年(昭和7年)5月2日、大森駅の海岸口のところに日本で初めての植物市場として営業を始めた。今、駅ビルや東急インが建っている線路際である。終戦後、駅前開発のため代替地を環状七号線のそば入新井3丁目、現在大森北5丁目にもらったわけだが、ずっと長い間大森駅と一緒に歩んできたのが大森園芸だった。会社に入ってそのルーツを調べていったとき、一枚の写真に出会った。それは今平和島の競艇場があるところが人口島のまさに平和島で、大東亜戦争の捕虜を収容するプリズンだった写真だ。戦後、進駐軍にA級戦犯として捕らえられた日本人も収容された平和島の写真だ。その写真は第一京浜から撮られている。もうあと二枚の写真があって、その写真は第一京浜に沿って海際に建っている澤田屋、小町園、悟空林など大きな料亭のところからずっと列をなして並んでいる米軍たちの長い列だ。最後の三枚目の写真は、その列の最後尾がなんと大森駅のところだったことを伝えていた。この列は何かというと、進駐軍に一般の婦女子が襲われないようにと、もう一つの女性特攻隊を募り、義勇軍として戦争で夫をなくした未亡人などを公募し、大森海岸のこの料亭街で性欲のはけ口とさせたのだ。もう随分前のことだが、何でこんなところに長蛇の列の写真があるのか分からなかったが、選挙で入新井第一小学校に入ったら同じ光景と思われる写真があった。言葉では言い尽くせないが、このようなことを経て我々は今がある。7年前、母が住む池上の家を建て替えたとき、僕や妹の古着やおもちゃが出てきた。母が言った。「こんなに平和が続くなんて思わなかったわ。」台湾からの引揚者である母は今でも現実の中に美しさを見出すことを信条として生きている。

投稿者 磯村信夫 : 2007年8月20日 00:00

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