大田花き 大田花きコーポレートサイトへ
 

« 国際化にあって小規模生産は間違いではない | トップ | 経営環境の厳しい中で »

2012年9月 3日

9月2日は敗戦の日

 孫崎享氏の「戦後史の正体」を読んでいる。ちょうど昨日9月2日は東京湾に入港したミズーリ号の艦上で、日本がポツダム宣言を受け入れ全面降伏の調印を重光外務大臣がした日であった。人気スポットのお台場から少し沖に行ったところで調印式が行われ、日本が負け戦争が終わった。

 1944年から、食糧増産で花を作っては非国民ということだったので、一部の許された地域を除き花の生産はなくなった。私の祖父は花専門の種苗会社をしていたから開店休業であったが、1932年に作った大森園芸という花市場で糊口をしのいでいた。私は大森に住んでおり、近くの入新井第一小学校が選挙の投票所になっているが、もう20年以上も前に何故だかわからないがそこの小学校に大森海岸の料亭街を慰安婦の場所として日本国政府は一般婦女子の安全を守る為、慰安婦を募集し連合軍(アメリカ軍)の兵隊さんが列をなして大森駅の所まで並んでいる写真があった。その時は今云ったようなことはわからず、気になっていて何の列だかわかったのは今から15年前、大森の戦後史の中でこのコメントに出会った。このことは、9月5日のことだそうで、ミズーリ号で調印をし戦争が終わった後であるにもかかわらず、或いは調印をしたのは、何でも云うことを聞くということで調印したのか、終戦の3日後に日本政府はその道の商売をしている人もいるし、それ以外の人にも声を掛け応募し、約1200人余りの女性を今の平和島の競艇の前にあった料亭、澤田屋、小町園、悟空林などあったが、そこに女性を収容し、慰安婦として働かせたのである。憤りを覚えるが、日本が独立する51年まで、何んと国家予算の2~3割がGHQの駐留費としてあてられていた事実を思うと、言葉は悪いが日本人は進駐軍の言うことなら何でも聞く奴隷に成り下がっていたかのようであった。この国家予算の駐留費の中に花代も入っていたと云う。この花代は、駐留軍の奥さん方の生け花の習い事の費用や花のプレゼント代、自宅の花などでジャズ音楽などと同様、日本の戦後の花き生産と花文化の習慣付けのきっかけになっていったことを思うと、花き業界人として複雑な思いである。

 学生の頃、石橋湛山のお孫さんがいて、私の親友が石橋さんと親しかったので、話を聞く機会があった。お互いにノンポリだったから学生運動には関わらなかったが、安保闘争のこともあり、アメリカとの関係を良く話し合った。私は多分にアメリカから自主路線を取ろうとする石橋さんから影響を受け、おばがドイツ系アメリカ人と結婚しカリフォルニアに住んでいるのに行きたいとも思わず、花の仕事を始めて特にスーパーマーケットのクローガーが花の売上が多くなってからアメリカに行き始めた。学生時代から専らヨーロッパが好きで、それは勝者としての強健なるアメリカから自立したいという意識がそうさせたのである。日本も3.11と領土問題から国民の意識も変わりつつあり、狭い範囲だが、花のことのみ云えば、アメリカから自立しヨーロッパ、そして和モダンという風に先行して日本の独自性を出している。2012年9月2日を期に日本人は極端なナショナリズムに陥ることなく一国一文明の国として精神の上でも国家運営システムの上でも自立していくことを望んでやまない。

投稿者 磯村信夫 : 2012年9月 3日 15:48

Copyright(C) Ota Floriculture Auction Co.,Ltd.