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2016年4月11日

自分の死も歴史だ

 9日の土曜日、菩提寺のご子息の結婚式に妻と出席した。世事の慣例で不可欠なところはきちんと行い、それ以外はいたってお客様本位の、実にストレスの少ない披露宴であった。少子高齢化で、お寺さんも旅館と同様、ますます奥さんの役割が繁盛の度合いを決めるなと、つくづく感じたものである。おめでたい宴の最中ではあったが、こんなにお寺さんが我々檀家のことを考えてくれているのに、坊主丸儲けではないが、お寺さんのことを悪く言ったり、時に無視したり、また、自分の死を私物化したりする人がいることに、自分が腹を立てていることに気が付いた。花の仕事をしているから、葬儀にもっと花を使ってもらいたいというのではない。これでは駄目だと思うのが、「灰を何所どこに撒いて欲しい」だとか、「何も残さなくていい、お墓は要らない」等、"自分の死の私物化"をするような現代の風潮だ。

 我々人間は、先祖から時系列で繋がっている。後世の人間は、自分が先祖より受け継いでこの世にいることを感じ、どんな先祖であったのか、きっと知りたいと思う。死は文化遺産で、お墓の横の墓標を見ていると、今、自分がこの世に在ることの重みを感じる。かつては、人生の通過儀礼の中で、結婚式だけが自分の意思で作り上げることが出来た。しかし今は、自分の死、葬儀や埋葬ですら、それが出来るようになっている。ただ単に経済的理由から自分の死を私物化してしまい、まさに大気のチリに戻ってしまうことを選ぶ人もいる。しかし、それはしてはならぬことだと小生は思う。私にとって、今生きている歴史的な意味を感じとり、叱咤激励と感謝の気持ちを素直に表すことが出来るのは、亡き父母、養父母、そして、祖父母へ手を合わせて向き合った時である。

 宗教には見えないような宗教で、日本人の血の中にある神道がベースにあるから、死を取り扱う葬儀社は、ついこないだまで一般的に決してなりたい職業ではなかった。しかし、高齢化社会と共に死亡者数が増え、しかも病院で亡くなることが多いので、「死」についての重みが日常生活では殆ど感じなくなった。すると、社会的ニーズが高まってきた葬儀社の役割が益々必要になり、多様化と共に葬儀のやり方も増え、予算に応じていくつものオプションが準備された。そのような状況の中から、お金がかからない葬儀の有り様の一つに、亡くなる人が自分の死を私物化する簡便な方式と、自分がこの世に存在した痕跡すら残さない、墓標なしの在り方が提案されるようになった。

 親子間にしても、夫婦間、兄弟間にしても、そして、友人間にしても、自分が構成されているいくつものものが、自分以外の人達から移植されたもので成り立っていることを、みんなはいつ思い浮かべ、感謝の気持ちを持つのであろうか。忙しい現代では、せめてお彼岸やお盆の時だけでもそれを亡き人たちに伝え、今生きていることを感謝したい。現に文化としての「お墓に行く」という強制力、「仏壇の前で拝む」という強制力なくして、いつそのようなことを想うのか。忙しくなった現代人であればあるほど、死を私物化してはならないと思った次第である。

投稿者 磯村信夫 : 2016年4月11日 13:23

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