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2016年10月24日

農業関連改革は本気だ

 先週の金曜日、自民党本部で農林水産業骨太方針策定PTの会議が開催された。花き生産協会が出席するにあたり、小泉進次郎委員長の要請で、花き流通事情説明のため小生も出席してきた。会議の中で、平将明衆議院議員が「商社不要論と同様に、卸売市場不要論があるが、市場は重要であると思っている。政府はどのようにお考えか、ここではっきり考えを伺いたい」と質問があったが、小生には詰問に聞こえた。これに対して、農水省の礒崎副大臣より「卸売市場は大切な機関である。但し、今後は法改正も含め、時代に合わせた改革が必要である」とのご発言があった。22日の日本農業新聞では、この平議員の記事と米卸・神明の藤尾社長の発言の記事があったが、卸売市場のやるべきこともまさに一緒で、消費者に近い分だけ、卸売市場として物流加工や製品加工を行う。そして、商品開発等を行っていくことが必要である。

 当日は、米・製粉・卸売市場の三つの業界が呼ばれていたが、いずれも大手企業の日清製粉を除き、大きくて中堅、殆どが中小零細会社の業界である。これを、生活者と生産者の為、大規模小売店と普通の価格交渉が出来るだけの規模にし、需要を増やす為に海外にも輸出出来るような人材や施設等を有する仲立ち業になる必要がある。会議は、その為に国は指導をしていくべきはないかという、踏み込んだ見解が漂う雰囲気であった。実際の発言はその場ではそこまでなかったが、日本の人口動態や、特に、農業生産の実態を見た時、今やらなければ、この国の農業は壊滅するという危機感をひしひしと感じた次第である。

 かつての農商務省は、経済学者マルサスの思想を受け継いだものであったが、現在のオランダの、経産省の中に農業があるという考え方が、現代の先進国の主流な考え方になってきている。懐かしさや、変わらぬことへの安心感。これをベースに、農業関係の生産から流通は、規制や補助金で守られてきた。これを、ファーマーズマーケットや道の駅等の、肌と肌の触れ合いといった"ぬくもり産業"は残すものの、一方には、ビジネスベースで成長しうる産業として、仕事のやり方とルール作りを行えるよう、国は舵を切った。

 読者の皆様方に生鮮食料品花き産業を担う方がいらっしゃれば、今迄のように繰り返し行うことの幸せは、次の体制や仕事のやり方が確立されるまで、しばらくお預けして頂きたい。今日から、もっと生産性を上げる、取り組み方を変える、また、無駄を排除し、必要なもの、儲かりそうなものに投資をする。ここに頭と時間を使って仕事をしてもらうようにお願いする次第である。まず、過去の安住、楽しかった繰り返しの日々を捨てるところから出発して貰わなければならない。

投稿者 磯村信夫 : 12:39

2016年10月10日

これからもお花屋さんのあるまちをつくる為に―本屋さんの流通に学ぶ―

 国は、農業政策について将来を見通し、卸売市場についても抜本的な改革を行おうとしている。人口が増えてきていた20世紀の「公正に生鮮食料品花きを分配する」という、現行の卸売市場法である必要が無くなったと判断し、法の規制緩和をする方向で結論付けられそうである。卸売市場に必要なことは、既に行っている多面的な機能の強化を図った上で、生産者の所得向上に繋げ、消費者や小売店にメリットを与えられる仕事を実行することだ。

 どうすれば日本中に今まで通り花屋さんが営業し続けることが出来るか。どうしたら地元の花き市場が存続し得るか。小生が考える、小生がやるべき仕事の参考になるのではと、弊社大田花きが広報等でお世話になっている(株)パラフの小林さんから、本屋さんの存続と流通についての本『本屋がなくなったら、困るじゃないか(2016年、西日本新聞社)』を貸して頂いた。この本を二週間しっかりと読み、考えがかなり煮詰まってきた。本日は、花き業界人として、今後の仕事を「このような形でやっていきたい」ということをお話ししたい。

 本が書店に届くまでには、「取次」と呼ばれる卸が介在している。主にトーハンと日販の大手二社が中心となって、卸売市場的な役割を担っている。取次店は、本の小売価格の65%から70%位で出版社から仕入れ、書店に納品するのは平均で78%位だそうだ。物流費が割安に済む大手書店へは、仕入れ価格に少し上乗せした価格から、ものによっては仕入れ価格を割ることすらあるという。そして、大手の取次店に直接取り次いでもらえない小さな出版会社だとすると、地元にある第二の取次店、ここが小売価格の5~7%をとり、第一次のトーハンか日販の取次店に出すことになる。そこから、それぞれの店舗別に割当制のような形で本を置いてもらうのだ。

 現在の本屋さんは、多数あるコンテンツの中から売りたいものは何か、限定したものを販売する"セレクトショップ化"してきている。それが、街の本屋さんの生き残る道だ。またセレクト化してくると、現在の日本のような、再販価格は決められているが委託取扱い・返品可制度ではなく、ヨーロッパのようにリスクを冒して買取りをしながら、直接出版会社と取引する。さらに、直接取引だけだと限定されて、自分の売りたい本が売れない。また、地域の生活者を満足させることが出来ないことがある。セレクトショップ化した本屋さんが多くなると、受注先の小さな出版社に集まってもらって、事務代行・物流代行的な取次店を作ってもらい、そういう取次店からも本を揃え、品揃えを充実させていく必要がある。

 ヨーロッパの本屋さん業界でも、一人一人の生活者が買ってくれるのは一冊で、トータルでも少ない数量だ。だから、まちの本屋さんからすると、直取引しても、一定の手数料を払って取次店の物流や決済機能を使う方が安く済む。このように、取次店が物流・決済の代行をして、出版社と書店の直取引をスムーズにする仕組みが、日本でも必要だ。これを花で置き換えると、地元の卸売市場は、そういう市場外取引も物流と代金決済は市場内で行うと安く済み、出荷者と小売店に役立って手数料をもらうことになる。

 また、ご主人自らが営業している本屋さんでは、月販で350~500万円、年5,000万円の売上が一つの目標だ。優秀なパートさんがやめてしまうと、売り上げが下がってしまう。それが今の本屋さんの悩みだ。これは花店も一緒である。日本がオランダやドイツと違うのは、本屋さんの資格、花と緑の小売店の資格が、国家で明確にされていない点である。試験を受けて資格を持った人たちが、本屋さんや花店を経営すれば、あるいは、働いてくれれば、店は必ず繁盛する。今後、日本はここにも力をいれていかなければならない。

 さて、出版社の方も、中小がこれだけ多いというのは、世界の中でも日本だけだ。トーハン・日販に代表される取次店だけでなく、それなりに取次店の数があったからで、再販価格制度と委託出荷で、アイディアと資金があれば出版社をつくることが出来る。アメリカ・ヨーロッパの中小の出版会社は、基本は「取次」はないから、大手の系列化に入っている所が多い。そうしないと、消費者に届かないからだ。一方、日本の中小の出版社は、そのまま独立会社のままでも良いが、活動を活発化するには、自分の地域か、あるいは、自分が得意とする分野の取次店、即ち、花で言えば、農協や専門農協をイメージして貰えればよいが、そのような機構をつくり、集金、物流、そして情報を他の大手の出版社と同様のレベルで仕事が出来るようにする必要がある。

 情報革命がおこっている最中の本屋さん業界。それよりも、生存競争は緩やかだが、同様に街から花屋さんが消えてきている日本の花き業界。同じ規制業種として、卸売市場や取次店の機能を考えると、今までの卸売や取次店の役割を超えて、商流以外でも、小売店支援、出荷者支援を行っていくということが、生活者にとって、花店のあるまちづくりに、本屋のあるシックなまちづくりに欠かせないのではないかと思う次第である。この方向性で、卸売市場の規制緩和を歓迎し、花き市場はやっていきたい。

投稿者 磯村信夫 : 17:55

2016年7月18日

『言ってはいけない』一極集中の魚市場と青果市場

 この夏は、地方分権が機能していた江戸時代のことを勉強している。なぜなら、花は文化の産物であり、江戸時代の旧藩によって現在の花の使われ方も違うからだ。従って、その地域に根ざした専門店や花市場が必要だと小生は思っている。江戸時代、幕府の本拠地・江戸の周りには小藩や天領地が多く、反対に、江戸から遠く離れた場所に大きな藩が多かった。幕府は参勤交代などをさせて藩の蓄えを消耗させたが、一方で、独自の通貨を作ることを許可する等、幕府から権限移譲された藩により、それぞれの地域が活性化してきたわけだ。たとえ商い額が多くなくとも、地域の花市場が活躍する手立てとしては、数年前は政党・日本維新の会が唱える「道州制」のような、少子高齢化の中でも地域の中で地産・地消を中心に花き生産と流通が行われれば良いと考えていた。しかし、「道州制」は実現しそうにない。

 総務省が発表した2015年の人口動態でも明らかなように、生産年齢人口は全体の約60%になり、今後も減っていく。そんな中、2015年は日本人の個人消費のマイナス分を、インバウンド消費が補う形となった。来日する観光客は地方都市にも広がり、観光が重要な産業だとクローズアップされるようになった。観光はいつも地元の文化や農産物を大変高く評価するから、観光立国になるということは、その地域の文化が伝承されることであり、花きでは、その地域の生産者と専門店との仲介役の花市場がますます重要となるということだ。県に一つ、或いは、文化圏が違えば県に二つの花市場が必要だが、今のところは地産・地消に価値がある観光産業が拠り所である。しかし、現実は地元の花き消費+観光業の反映だけで持ちこたえることが出来るとは思わない。今、新刊でベストセラーとなっている『言ってはいけない 残酷すぎる真実(橘玲氏著・新潮新書)』ではないが、時代の流れはこのようになっている。(一社)日本花き卸売市場協会としては、これに逆らい流れを変えたいのだ。

 日本は成熟社会として、少量多品種の生産・消費となっている。それを評価する人達は、一定の知識水準が必要だ。事実として、知力は所得に相関するから、知識の高い人たちが多くいる所が、少量多品種の商品を生み出し、消費する地域となる。大学がその地域にいくつ位あるか。また、知識産業がその地域にどの位あるか。これらによって、その地域が活性化するのだ。また、2015年の人口動態で明確になったことだが、若い女性が都市部に流出している。日本はG7の中で女性の社会進出が少ない国だ。人手不足の中で若い女性たちが社会進出しようとすると、東北であれば仙台へ、九州であれば福岡へ、東京圏や大阪圏へと移住することとなる。

 グローバリゼーションの中で、青果卸売市場の活性化をみていると、例えば、トマトを出荷するにしても、多種多様なトマトが存在する。昔のように「桃太郎」一辺倒ではないのだ。これを適切に評価できる市場、また、多種多様な品種を量的にも扱える青果市場は何所か。運転手不足の中、コストを落とす為にも出荷先を絞りたい。食は文化なので、魚市場まで含めると、現在の日本では、東京・大阪のその中でも、大田・築地・大阪の本所に集中する流れが止まらない。この格差事実を「言ってはいけない」ことだとは言わずに直視し、その上で、手が打てるものなら打とうと考えることだ。

 例えば、秋田は人口が減っている。また、農家は米作中心だが、米の消費も少なくなっている。しかし、世界に目をやれば、知力で新しいモノやコトを作り出すことが出来る。花き業界の成功例で言えば、知力と技術、感性を高めて勝負した物が「ダリア」であり、これに続けと夏に花持ちの良い花を取り入れて進もうとしている。また、秋田は日本で一番、人口当たりの美容院が多い県で、お洒落な生活をエンジョイしようとする県民性がある。さらに、秋田の子どもたちの頭が良いのは有名だ。秋田県には日本で一番優秀な大学と評判の大学もある。人口が少なくなることを嘆いてばかりはいられない。知的レベルを上げて、そして、若い女性が十分活躍できる職場を用意し、その地域の文化を継承しながら生きていく。秋田の日本酒業界を見よ。秋田の花き業界を見よ。人口減の日本で、頭が良い努力家でスマートな秋田を、地域活性化の手本にしたい。

投稿者 磯村信夫 : 15:52

2016年7月 4日

二つの潮流

 3日(日)、川崎のチネチッタで映画『フラワーショウ!』を観に行った。ロンドンで開催されるガーデニング世界大会「チェルシー・フラワーショー」で、アイルランドの若き女性が金賞を受賞した実話である。ガーデニングで有名な英国本土の、世界最大とされる大会での受賞である。アイルランドの園芸家からすると、一神教の社会では異端とされていたケルトの自然観、また、様々な自然の神々が認められたということで、21世紀は新しい時代だと希望を持って語られた筋書きだった。同様に、日本もいたるところに神々がおり、畏敬の念をもって拝まれている。その意味で、アーティストの石原和幸氏が「チェルシー・フラワーショー」のアーティザンガーデン部門で五年連続金賞を受賞していることも、彼がデザインした庭が、今と未来を美しく形作っている為だろうと想像する。

 昨日は参院選の真っ最中ということで、川崎では昼の暑い中でも選挙活動が盛んだった。『フラワー・ショウ!』もグローバリゼーションの中の1つの価値観であるように、今回の選挙で、世界の潮流である18歳からの投票権がいよいよ日本でも行使されることとなる。若者が集まる川崎駅の東口でも西口でも、各候補が支持を訴えていた。こういった世界共通の価値観は、ダッカのテロ事件に対する、市民の哀悼の意の示し方にも表れている。イスラムの国・パキスタンでも、蝋燭を灯し花束を捧げていた。花束は菊・カーネーション・バラ・ユリ・ガーベラ・グラジオラス等が中心で、これも世界共通の花であった。

 一方、世界のグローバリゼーションによる近似性や、多様性を認めるという思想の潮流とは逆に、過去を共有するものたちによる民族主義的、階層的な動きがある。国際政治でいえば、ロシアとトルコの民族紛争的敵対関係が、我々日本人にとっては分かりやすい例えだろう。それと同様に、日本の農業関係でも、時の政府と農業団体が対抗姿勢を強めることがある。これも、歴史的な経緯からだと小生は思っている。政府はアンチ系統農協の農業法人を国の諮問委員会等に入れることがあるが、規模の大きい農業法人が、地域の農協を通じて農産物を販売するところも多くなってきている。これこそ、日本らしいと小生は思っている。例えば、日曜日の人気番組「笑点」のスポンサーになっている系統農協では、とぴあ浜松農協の白玉ねぎを一つの象徴として取り上げている。また、小生がよく知る民俗学者の柳田国男(元農商務官)が見た系統農協の在り方も、大小の規模の農業者とも協業する在り方も、結局、これが日本の農業ではないかと思う次第である。

 何故そう思っているかというと、日本の今の農村地帯をつくってきたのは、戦国時代を経て、国として落ち着いた江戸時代からだ。各藩の武士政権は年貢を納めてくれればよいので、武士と農民の双方が折り合いをつける形で形成されたのが、村請制度・庄屋制度である。監督官は郡奉行やその地域の代官。その下に大庄屋。大庄屋は10の庄屋を束ねており、その庄屋はさらに50人程の農家を束ねる。束ねると言ったが、庄屋は50人の農家の面倒を見るということだ。武士ではなく、あくまでも有能な農家を自分たちの中から庄屋として選び、10の庄屋から大庄屋を選んで出来た制度である。こういう風だから、天候で飢饉になった時、民政ではない大名はさらなる増税をしようとする。そうすると、当然一揆が起きることとなる。民政は庄屋を中心に行っていたわけだ。このように、「農業」という仕事をする庄屋農民組織のゲゼルシャフトと、地域構成員の幸せを願う「農村」というゲマインシャフトとの境が、あやふやになっていた歴史がある。今では、農協の支店はその地域のことを考える庄屋の役割。農協の本所は、広い地域の民政を行う大庄屋の役割。そして、県の全農や共済等、全中まで含めた系統機関は、今は軍事国家ではないから、県全体の民政を行う役割を行っている。そこをふまえて初めて、岩手県や静岡県等の、現代に合った農業者と系統農協の在り方が出てきている。

 大規模になった農業会社は農協を利用しない。それはそれで良いだろう。しかし、農協を利用しないから儲かるというのは間違いだ。そういう会社も地元の農協か、あるいは、全農県本部を通した方が儲かる場合が多い。江戸時代から続く歴史を知ること。そして、明治の農商務省の時代、戦前・戦後の農林省の時代、さらに、今の畜産と園芸が主力となった日本農業の時代の在り方を学ぶことによって、人気番組「笑点」に出てくる、とぴあ浜松のプロとして農家を支える農協がイメージ出来る。農家と伴に生活し、農家を支える主体性をもった農協としての姿だ。系統農協は自分の都合を通す圧力団体ではないことを、読者の皆様に歴史から学んで理解してもらいたい。これは、日本民族の有り様なのである。

投稿者 磯村信夫 : 16:07

2016年5月 2日

自分の所属する組織体がこの世で何を実現すべきなのか理解する

 三菱自動車の燃費試験データ不正問題が話題となっているが、三菱自動車が信頼を回復するには、かなりの時間を要するのではないかと推測する。問題点の一つは、チェックをせずに当事者の発表に任せるという、性善説に基づいた方式では、日本ではもはや通用しなくなっていることだ。アメリカと同様の、オーソライズされた調査機関が日本でもあるべきである。農業分野で言えば「エコファーマー」や、「有機」は誰がチェックしているのか。人は自分のことを現実よりも2~3割は甘く見る習性があるので、オーソライズされた機構がチェックをしない"自称○○"の場合、あらかじめ割り引いて、あるいは、最初から信用しないで、そのモノやコトを買ったり使ったりする必要がある。

 もう一つ、今回の三菱自動車の起こした問題で小生が思うのは、自社が何のためにこの世に存在しているのか、その理念や夢が社会のお役立ちの下にあることを忘れてしまったのではないか、ということである。いつも競争の中で他社と比べて優位になることしか、即ち、相対価値しか頭になかったのではないか。古い話になるが、カリフォルニアで厳しい排ガス規制が設置された時、本田宗一郎は新興自動車会社として名を挙げる絶好のチャンスと捉え、この問題に取り組んだ。一方、社内の技術者は、子どもたちに綺麗な空、空気を残したい為に排ガス規制に取り組んだ。他者との相対的優位に心が奪われていた本田宗一郎だったが、CVCCエンジンを作った社員たちが「夢を追い求めた」ことを受けて反省し、ホンダイズムが会社の資産になったことを喜び、会社を「任せた」とリタイアしていった。ホンダは相対価値をつくる会社から、「真・善・美」の絶対価値をつくる会社となったのである。

 三菱自動車は、何をやりたいと思っていたのか。GE(ゼネラル・エレクトリック)のように、「市場」、「競合」、「自社」を分析(3C分析)、競争に勝つことにより、有名企業となっている会社がアメリカには多い。しかし、3Mやgoogleのような会社もある。競争が激しくなる中、会社では監査役や公認会計士、あるいは、業務の上ではオーソライズされた認証機関が、今の日本、そしてもちろん、花き業界の生産、流通、小売の分野においても必要だ。さらに、自分が働く企業は何の為に生まれてきたかを理解し、その為に進化をすることだ。三菱自動車が再起を図るには、もう一度、自分がやりたいことを確認し、それを行う一つの種として進化することである。我が花き業界でも、甘いことがあまりにも多い。もう一度チェックシステムを見直して、心を引き締めてコトにあたるとしよう。

投稿者 磯村信夫 : 16:17

2016年4月25日

総会前に役員人事制度を考える

今週末からGWが始まる為、入荷が増えてきている。今日の荷姿は、母の日の準備と結婚式用の花々が多かった。以前よりはGW中に結婚する人が増えてはいるが、それでも、GW中の結婚式を避ける風潮がまだある。だから今週末に挙げてしまおうとしているのだろう。

 セブン&アイ・ホールディングスの役員人事の記事が、ここ2週間、日本経済新聞を中心に詳しく報じられている。本日は、小生の会社役員の人事に関する考えをお話ししたい。1994年、先代の社長・磯村民夫から指名を受けて、株主総会で取締役の承認、その後の取締役会で代表取締役社長となって半年経った頃、このままでは会社が危ないと思った。社長である小生が、嘗ての三越の岡田社長や、伊勢丹の4代目小菅社長のようになってしまう可能性があったからだ。小生が大田花きの前身である大森園芸に入社した1970年代、都内では中堅よりも少し上で、取扱高は東京で4、5番目であった。それを色々な改革をしながら、大田市場に入場する前には、都内では圧倒的1位、日本でも、既に合併会社になっていた大阪の2社に次ぐ3位の実績まで伸ばした。当時は業界ごとの利益番付が公表されていたが、そこでも断トツ1位を花き業界では誇っていた。そういった実績を引き下げて、しかも大田花きの株式の三分の一を保有していたのだから、磯村家の長男である小生は、裸の王様になっていく可能性は十分にあると、社長になって空恐ろしくなったのだ。そこで、大田花きでは、アングロサクソン系のヨーロッパやアメリカのシステムを導入し、非常勤の経営者たちに、あるいは、経営経験者たちに取締役になってもらった。そこで指名委員会、報酬委員会、監査委員会を構成し、取締役が会社を経営する。そして、取締役の命を受けた執行役がその下に属し、執行役が使命を果たせない場合には、いつでも解職にすることが出来るようにした。また、執行役と取締役を兼ねているのは一人で、それが小生だ。取締役会会長で、執行役会の代表者でもある。この小生を「機関」として、会社の為に正しく意思決定をしたり、行動していないなら、辞めさせることが出来るシステムが出来上がった。

 今回、セブン&アイ・ホールディングスの子会社であるセブン-イレブンの社長選任について、指名・報酬委員会の多数決で、鈴木会長の意見が通らなかったそうだ。しかし、それが決まった時に会長を辞任されるというのは、大田花きの組織運営から考えると、解せないことである。卸売市場業界は、出荷者にしても、買い手にしても、メンバーが決まっていることが多い。従って、政治家と同じように同族の人が後を継ぐことになりがちだ。その時にしてはならないのは、その役割を「身分」として捉えてしまうことだ。指名・報酬・監査の三つの機能を、同族の手の届かない所に置き、その意思決定に仕えることを前提に、会社運営をしなければならない。日本人の素晴らしさは、血がつながっていない他人を信ずる文化である。

 今、卸売市場や仲卸で、その会社の役員が役割としてではなく、身分として振る舞う人が少なからずいる。ここにも、古い日本を引きずった花き流通業界のマイナスに陥りやすい点がある。役職者は、とりわけ取締役は、「自分の役割は機関だ」ということを徹底して欲しい。「会社は社員のもの、次いで株主のもの」。こう言えるのではないかと思う。このための組織が大田花きの組織である。一方で、変化が激しくスピードが求められる今日、執行役の中でも代表執行役は、一人で執行役会の決議を経なくても意思決定・実行が出来るようにしなければ、ビジネスチャンスを逃してしまう。ワンマン経営でなければ、実際に業績を伸ばしていくのは無理だ。その為にも、代表執行役を解職に出来る社外取締役が過半数を占める取締役会が大切だと思う次第である。この視点で、もう一度セブン&アイ・ホールディングスの人事を勉強し、また、自社の役員の人事政策に役立ててもらいたい。

投稿者 磯村信夫 : 18:10

2016年4月18日

母の日までの新たな取り組み

 今朝、会社のパソコンを立ち上げると、海外の友人から熊本の大震災に対するお見舞いメールがいくつも入っていた。ここ20年で、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災があり、同業の卸売市場や仲卸、生産者や小売店に多大な影響を及ぼした。建物の被害だけでなく、震災がきっかけとなって資金繰りが悪化したり、取引先が細って倒産したり、廃業したりしたところが少なからずある。これまでもそうならないよう助力してきたつもりだが、今回は今までの経験を更に生かして、復興を助力していきたい。被害の全容はまだ分からないが、母の日に向けて出荷と販売が例年通り出来るようにしたい。そう友人達に返信した。

 昨日は父・民夫の23回忌で、本当に近しい人達に集まってもらった。先週、死について小生の考えをお伝えしたが、死には「個人の死」と「絆の死」がある。シニアの中年組である70歳代以上の方には、参加について無理をしないようにしてもらったが、50歳代からもっと若い曾孫にあたる人達には、出来るだけ参列してもらった。これが「絆の死」、「つながりの死」であり、法事を行う意味でもある。
 
 父といえば、アサヒビールのスーパードライを思い出す。1980年代、アサヒビールの国内シェアは10%を切るか切らないかという時代で、向島の本社からお昼休み等で社員が外に出る時、アサヒビールの社員であることが恥ずかしいと、会社の社章を外して外に出る位、社格が落ちに落ちた時があった。そこから、戦後の財閥解体前の、日本を代表する良い会社であった大日本麦酒の勢いを取り戻そうと、アサヒ生ビールで勝負に出た。そして、住友銀行から来て社長に就任した樋口廣太郎が、「鮮度が大切だ」と一定期間経った生ビールを処分させたのである。このこだわり、また、消費者は嘘をつかないという、消費者を信ずるアサヒビールの姿勢に、亡き父はいたく感心し、スーパードライばかり飲んでいた。社会人になって少しモノが見えてきた小生が「目隠しして飲んだら、どこのビールも一緒じゃないか」と言ったら、父は「そんなことはない。人は味が分かるのだ」と、こっぴどく叱られた。鮮度のこと、味の違いはその当時の小生には分からなかったが、関東で住友系のアサヒビールにあれだけ肩入れしていたのは、会社としてのアサヒビールの素晴らしさを想ってのことだろう。後になってそう思うようになった。そのアサヒビールで、献杯をした。

 法要が終わり、小生と同じ歳のご住職が「月日が経つのは早いものです。80歳にとって一年は1/80。60歳にとっては1/60、30歳にとっては1/30です」とおっしゃった。確かに、歳を取って一年は早く感じると、その時は得心した。しかし家に帰ってから「いや、時間は平等の筈ではないか」と疑問に感じた。歳を取っても、一日をしっかり刻んで生きて仕事をしているのであれば、惰性ではなく、新しいことをやっていけば、会社だけでなく、何歳になっても一個人としても成長できるし、その一年は十二分に長い一年になる。亡くなってから、その人の年月は悠久に入る。長かったり、あっという間だったりするのであろう。しかし、生きている個人の一日というのは、歳に関わらず、欠かせない一日であり、また、一年である。花き業界にとって今一番しなければならないのは、熊本・大分・九州地域のお取引先の元気な復興を願い、手伝う算段だ。まずは母の日を目がけてやっていこうではないか。

投稿者 磯村信夫 : 12:51

2016年4月11日

自分の死も歴史だ

 9日の土曜日、菩提寺のご子息の結婚式に妻と出席した。世事の慣例で不可欠なところはきちんと行い、それ以外はいたってお客様本位の、実にストレスの少ない披露宴であった。少子高齢化で、お寺さんも旅館と同様、ますます奥さんの役割が繁盛の度合いを決めるなと、つくづく感じたものである。おめでたい宴の最中ではあったが、こんなにお寺さんが我々檀家のことを考えてくれているのに、坊主丸儲けではないが、お寺さんのことを悪く言ったり、時に無視したり、また、自分の死を私物化したりする人がいることに、自分が腹を立てていることに気が付いた。花の仕事をしているから、葬儀にもっと花を使ってもらいたいというのではない。これでは駄目だと思うのが、「灰を何所どこに撒いて欲しい」だとか、「何も残さなくていい、お墓は要らない」等、"自分の死の私物化"をするような現代の風潮だ。

 我々人間は、先祖から時系列で繋がっている。後世の人間は、自分が先祖より受け継いでこの世にいることを感じ、どんな先祖であったのか、きっと知りたいと思う。死は文化遺産で、お墓の横の墓標を見ていると、今、自分がこの世に在ることの重みを感じる。かつては、人生の通過儀礼の中で、結婚式だけが自分の意思で作り上げることが出来た。しかし今は、自分の死、葬儀や埋葬ですら、それが出来るようになっている。ただ単に経済的理由から自分の死を私物化してしまい、まさに大気のチリに戻ってしまうことを選ぶ人もいる。しかし、それはしてはならぬことだと小生は思う。私にとって、今生きている歴史的な意味を感じとり、叱咤激励と感謝の気持ちを素直に表すことが出来るのは、亡き父母、養父母、そして、祖父母へ手を合わせて向き合った時である。

 宗教には見えないような宗教で、日本人の血の中にある神道がベースにあるから、死を取り扱う葬儀社は、ついこないだまで一般的に決してなりたい職業ではなかった。しかし、高齢化社会と共に死亡者数が増え、しかも病院で亡くなることが多いので、「死」についての重みが日常生活では殆ど感じなくなった。すると、社会的ニーズが高まってきた葬儀社の役割が益々必要になり、多様化と共に葬儀のやり方も増え、予算に応じていくつものオプションが準備された。そのような状況の中から、お金がかからない葬儀の有り様の一つに、亡くなる人が自分の死を私物化する簡便な方式と、自分がこの世に存在した痕跡すら残さない、墓標なしの在り方が提案されるようになった。

 親子間にしても、夫婦間、兄弟間にしても、そして、友人間にしても、自分が構成されているいくつものものが、自分以外の人達から移植されたもので成り立っていることを、みんなはいつ思い浮かべ、感謝の気持ちを持つのであろうか。忙しい現代では、せめてお彼岸やお盆の時だけでもそれを亡き人たちに伝え、今生きていることを感謝したい。現に文化としての「お墓に行く」という強制力、「仏壇の前で拝む」という強制力なくして、いつそのようなことを想うのか。忙しくなった現代人であればあるほど、死を私物化してはならないと思った次第である。

投稿者 磯村信夫 : 13:23

2016年3月28日

"今"に集中せよ

 年度末の週となった。オフィス街では、送別と入社の花が動く週だ。このごろは、オフィス街が商業地に衣替えしているので、桜の花の需要も大変多くなっている。この3月、住宅地とオフィス街では忙しい時期が違う。弊社は、東京・横浜の中心部に近い為、年度末と年度の始めは大変忙しい買参人さんが多く、法人需要の多さが胡蝶ラン一つとっても目につく。

 さて、本日は、当たり前のことだが"今"という時について考えたい。"今"は過去の集積であり、未来の予言でもある。過去と未来を繋げること、つまり、過去を受け入れながらも未来を創ることだ。だから、 "今"に集中する。過去の遺産で食っているのでは駄目で、未来を創る行動をしなければ、エントロピーが高まって死期が早まるだけだ。しかし、花き産業は、生き物である花から学んでいる筈なのに、産業として、また、それぞれの組織体や個人が仕事の上で未来を創る時間を割いていない。過去の繋がりでご用命頂き、その処理をする作業でおしまいになっている。年度末、改めて省みることで"今"に集中する。一方、未来を創る"今"にもっと集中して、実際に時間を使う。これを行っていく。

 メンテナンスと言われようが、たまたまイノベーションを思いつこうが、とにかく、未来を創ることに時間を割けたか、行動出来たかをチェックしながらやっていく。こう決意するのが、年度末から年度始めにわたる今週に思うことである。一日の中で明日への投資をどの位行ったか、花き業界と人して、自分自身の行動も含め、チェックしていきたい。
 

投稿者 磯村信夫 : 12:43

2016年3月 7日

ネットの価格

 5日の土曜日、昼の部のコンサートへ行った後、家内と食事をしようと、家内が好きなホテルのレストラン部門が出店している銀座の鉄板焼きに食事に行った。コンサートが終わった後に電話をしたら、空きがあるとのことで店に向かった訳だが、店内には先に中年の女性客が、我々が来た後に中年カップルや若い人達が来て、店はほぼ満席となった。ふと気が付くと、我々だけがアラカルトを頼んでおり、他の人達はコースを頼んでいた。家内いわく、グルメ紹介のネットを通じて予約しているから、ドリンクがサービスになったり、コース料理でお得に楽しめるのだという。私たちももう少し時間があれば、予めネット予約をしたのだけれど、と言っていた。支払を済ませながら、僕は何やら不公平な感じがしてならなかった。カウンターで料理人と話していて、家内が何回もそのホテルへ宿泊していることや、これからも行くだろう上得意の客であることは店側も分かっているだろう。一方、ネット予約の客は、昔で言えば"一見さん"かもしれない。もちろん、上客の場合もあるだろう。しかし、直接予約した贔屓の客の方が、何割も高いお金を払っているのは何かおかしい。唯一納得出来るとすれば、若い人たちにお店を知ってもらい、今後の固定客となってもらうための割引だろうか。2015年、ネットで買い物をする世帯が全体の30%弱になったと総務省が報じているが、ネットからの受注を安くするというのは、何かフェアではないように思う。ネット業者に仲介手数料を払っているのは、知ってもらい店の効率を上げるためだというだろうが、店を使う顧客の視点に立つと、甚だ面白くないことが多くなっているネット社会だ。ネット社会の今日、あらゆる業界でサービスと価格設定をもう一度考え直すべきで、サービスの安定まで含めると、航空会社に学ぶべきところは多い。
 
 総務省は同様に、2015年10~12月の労働力調査を発表した。それによると、結婚している25~64歳の全夫婦のうち、半数が共働きであるという。年代別にみると、妻が25~34歳までの世帯の60.6%、35~44歳が68.8%、45~54歳が73.8%、そして、55~64歳が50.3%の割合で共働きとなっている。お子さんが小さいうちは、4割弱の人達が育児に専念している。お子さんが小さいうちに、居間やテーブルの上、お手洗いやちょっとした出窓等に切花や鉢物があると、子どもが豊かに育つというのは、大脳生理学、精神医学でも証明されている。しかし、子どもが預けられるようになるまで、女性はなかなか働きたくても働けない現状もある。夫婦とも稼ぎがこれだけ多くなると、やはり週末に花を買ってもらうことが重要になるだろう。さらに、今後ますます女性が働くようになってくると、オフィスに観葉植物や、ちょっとした切花等を取り入れることで、職場の精神衛生だけでなく、そのお母さんの心のゆとりにも繋がっていくはずだ。もちろん、男性まで含め仕事の生産性を上げることも出来ると、大脳生理学・精神医学者は言っている。

 各家庭はさらに忙しくなっている。必要不可欠な家族の団欒、趣味の時間も必要だ。こういう中で、花を、うるおいのある生活をするための小道具として使ってもらうには、週末にかざる花(ウィークエンドフラワー)や、オフィスの花(フラワービズ)、そして、受け取り方をきちんと考えたネット販売。これらのプロモーションが必要だろう。花のネット販売では、お試し価格として、年代層によって値段を割り引いても良いと思われる。

投稿者 磯村信夫 : 16:02

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