「義」


社会的真義のことを「義」というが、人間として欠かせないものの内の一つである。
日本は花の普及を見てもわかるとおり、上に立つ者が一般大衆の幸せを願い、一般大衆は宮廷の、あるいは大名の親しんだ花を真似して花き園芸が勃興してきた。「信」を持った為政者が有史依頼この国を指導してきた賜物である。彼らはいつも大衆と共にあった。日本人は自然を秩序たった正しい動きをするものとみてきた。自然な立居振舞は、天の法則に則って考え、発言し、行動することであった。その意味で日本は性善説の立場をとり、上に立つ者はほとんど楽天家であった。民謡、あるいは恨み愚痴でない歌謡曲には、すべからくこの楽天性を感じることができる。一方、アングロサクソンが開発した資本主義は、性悪説ともいえる立場をとる。人は「飢えや失業の恐れ」と「金を儲けて物質的な生活をする」を飴や鞭にしなければ、人間が本来持っている怠惰性を脱却できない。特に大衆である平(ひら)の人達を動機付けることはできないのではないかというのが、資本主義の大本に在るものだ。アメリカの景気は良いと言われるが、家計収入を見る限り1970年を100としたら、1995年は112、日本は180を超えている。どちらが好ましい国であろうか?平である一般大衆が確実に所得を伸ばし、国民全体が豊かになってきた日本は、良き国なのではあるまいか。それは上も平も共々お互いを慮り、人を信じて仕事をしてきた賜物であろう。しかしこのごろグローバルスタンダード=“アメリカの経済を見習え”の要求を受入れて行く社会風土に日本も変わりつつあるように思う。このことは経済のやり方やルールの作り方、リスク管理という名の基に、性悪説を人間関係の中でもとっていこうとする動きのようにも思える。
勝ち組み、負け組み、そして妬みや嫉妬、これらが社会の根底に渦巻きつつあるように思える。それほど大衆は豊かになり、既得権に執着し精進もせず、豊かさを享受しようともせず、働かなくなり、自分を磨かなくなっているのかもしれない。日本の良さと相反する性悪説は、一種の国の衰退化現象のようにも考えられる。


1997/11/10 磯村信夫