哲学的考察


5月に入り、体の具合が思わしくないので、家に篭って哲学や宗教の勉強をしている。
中村雄二郎やポール・リクールなどを読み、禁酒で浮いた時間を思索に充てている。中村雄二郎氏によれば、日本は仏教国ではなく、儒教と道教が混在しているという。小生も、東大に代表される儒教(北馬)と、鉢巻をしてすぐに裸になりたがる道教(南船)が入り混じっており、支配者は儒教、市民は道教の影響が強いと思いながら日本国民を見てきた。山本七平の「空気」や「場所の権力」によって日本は支配されているのでムードに弱い、と感じていたのである。宗教的に多様な価値を認める儒教と道教の混在する社会が日本社会であると見ると、同様の価値や習慣を認める人を身内と認識し、異質な人を身内以外のものと見なし、急に素っ気無くなっていく。このように日本では、西洋人の言う民主主義が育ちにくいのである。良く知られている第二次世界大戦突入の時、戦争反対の海軍から「1年半はもちましょうが」と国益を優先するのではなく、空気によって結論が導き出されたことは、日本の大いなるマイナス点である。その中には、責任というものが明確化されていない。
ここ大田花きでも、会議の席で「それは誰がやったのか」と責任を追及すると、その上司は実名を避けたがる。本来仏教徒であれば、因果応報であるので、責任は個人に帰するのであるが、「場所の権力」や「空気」が支配する日本の組織は、責任が曖昧になる。これは銀行や証券会社の不祥事についても言えることである。頭取、副頭取の自殺は、責任を取ったのではなく、責任をうやむやにする目的で取られた行為である。一神教の宗教を持たない日本は、ルーズ・ベネディクトから「恥の文化」といわれた。西洋であれば、罪を犯した人に対し罪を気付かせ、二度とそのようなことをさせないために、徹底して処罰する。しかし日本は「仇討ち」がそうであるとおり、罪の贖罪を認め、責任が曖昧になる。これはこのような心理からではないかと思う。ちょうどデジタル化社会で、テレビではくだらない番組(その時は楽しくても後で思い出せない)が横行しているのも同根である。
ポール・リクールはアイデンティティー(自己同一性)を、通常考えられている一つのものでなく、二つに分けた。“Sameness”同一性としての自己と、“Self-hood”自己性としての自己である。日本ではこのSamenessのみに心を奪われ、一人一人が生活しているのではないか。Self-hood(自己性)が培われていないので、他人の痛みが解らないのではないかと考えられる。神戸の児童殺害事件など、まさにこのようなことなのではないだろうか。それゆえ、仲間内や虚構と現実が見境なくなってきているのであろう。デジタル社会には、ますます仏教で言う小我とSamenessのみになっていく危険が大きい。今の子供たちをみていると、まさに悪い予感が当りつつあるように思う。
深く思索をしていた昨日の朝、W.ベニヤミンの言う「幸福とは何の恐れもなしに自己を眺められることである。」という言葉に出会った。まさにこの境地は現実を直視し、己を磨いた後にくる宗教的、哲学的境地であろうか。午前中はそう思っていたが、午後には私のライフワークである小林秀雄の「市界にそれとなく暮らしている人に、優れた人が多い。」という言葉を思い出し、そういえば、と陰ながら私慕している生産者やお花屋さん達の顔を思い浮かべた。


1999/05/31 磯村信夫