モラルハザード


 日本でも2千万世帯でインターネットが使われるようになってきている。また、一定の事業規模の会社では、ほとんどがグループウェアを使っている。そうなると、今まで話し言葉で済んでいた人たちも、読み書きする力が大切になってくる。我が家でも、家内が息子に岩波新書の日本語練習帳を買い与え勉強させていた。

この基礎学力が大切で、これによって人が評価される時代になってきた。たかだかここ20年程おかしかっただけで、昔からそうである。文章は人間性そのものが滲み出るから、教育に本腰入れる必要があると、有識者は考えているのだろう。中国人と話すと、「我々は日本人に比べて群育ができていないから...」と、日本人の集団パワーに感服しているかのように言われることがあるが、日本ラグビーの監督、平尾氏が言うように、「めだかの学校ではない群育」に、日本人は優れているとは言い難い。だからほとんどの団体競技では、世界の足元にも及ばない。このことは社会性のなさにイコールではないかと疑ったが、そこまで深刻に考える必要もなさそうである。

人の立場に立つ、思いやりを持って接するという、当たり前のトレーニングができていないところに問題がある。これらの社会性やらは、個性と相反しない。個性を磨くためには葛藤を伴うが、そこにこそはじめて平尾の目指す「群育」がある。イギリスの大学教育を見ると解るとおり、大切なのは哲学や宗教など、生き様について深く考察することから教育そのものを始めることである。教養課程で学んだ後、専門の物理や社会学を学ぶ。私は団塊の世代だから、少なくとも「三太郎の日記」、「出家とその弟子」など、思春期において当然読まなければならない本は無理矢理読まされた。友達の間でも、読んでいないと格好悪かった。しかし、今消費を握っている第二の団塊の世代は、選択肢があることを本能的な権利とみなしているようだが、選択肢が多ければ多いほど、選択する目を養うことなく人真似で売れているものしか買わない。このようにかなり白痴的になり、個の尊厳に対して無関心になってきている。よって個の大切さを知らないが故に、社会性も、また現在通信手段として最も大切な文章力も欠けている。日本語のみならず、英語が一定水準できることも、グローバルエコノミーに生きる我々にとって必要だが、そのためには個としての確立と、基礎学力、倫理性などが欠かせないのである。

毎朝、開市時間前にごく一部の心無い小売商へ、ダンボールやゴミの不法投棄、買参人証の着用の注意を呼びかけているが、業界のレベルを決めてしまうのはこのような人達である。売上が良いと元気になるのは人情として判るが、しかし売上と生き様は基本的に別物であるはず。むしろ一部でしかないという事実に気付いていないのであろう。花き業界では、長い間供給が需要より少なかった。だから不埒なことをする小売、仲卸、卸、生産地、種苗会社も、それ相応の収入を得ることができたが、もはや供給が多くなり、淘汰の波がこの人達の足元に迫っている。だからより荒れてくるというのは、現代の日本の一事例のようなものである。




1999/11/29 磯村信夫