ベトナム


ちょっと私的なことですが、秘書の内藤さんがベトナムに行くということで、小生の共産主義国家遍歴について駆け足でお話します。

今から33年前、シベリア鉄道経由でソ連や旧東ヨーロッパを旅していたことがありました。共産主義は本当に当時言われていたように理想的なものであるかどうかを見るためでした。ロシアではインツーリストが窓口になり、夜間でも誰かが部屋の中に入ってチェックしたりしているような気配を感じたりすることもありながら東欧を回り、イタリアに一度出ました。当時イタリアは共産主義が流行っていて、南イタリアに行った時、初めて貧しさ故の共産主義を理解しました。その後、旧ユーゴスラビアに行き、文化大革命だった時に唯一中国の友好国家であったアルバニアにも行きました。ノンポリで学生運動に参加していない私は、日本に戻ってきてもう一度マルクスやエンゲルス、そしてレーニンなどの思想や経済学の書物を読みあさりました。そして、中国に行こうと日中学生友好会に入り、大変政治色の強い団体でしたが共産主義者になることなく中国に行き、その後ベトナムを訪れました。ベルリンの壁崩壊後、共産主義があたかも意味がなかったかのように言う向きもありますが、偉大なる実験であり少なくとも私個人は多感な高校大学時代の7年間を決して共産主義に染まることなく共産主義を学んだ有意義な年月でした。

余談になりますが、マルクスは流通機構を必要悪としながらも、国の生産性は流通機構にあると重要視しています。

さて、ベトナムはここ30年間節目節目で訪れていますが、ベトナム戦争が始まった時、中国から帰って数ヶ月しか経っていないせいもあって、プロパガンダもホーチミンの大きな肖像もないことに不思議さを感じました。ベトナム戦争が終わって半年後再び訪れた時、ユエで偶然に日本人の方と出会いました。帰国してから調べたことですが1943(昭和18)年、日本は欧米にすっかり囲い込まれ、経済封鎖を受け、東條内閣は戦争を決意しました。当時英国大使だった重光葵氏は、日本の戦争目的を世界に宣言する必要性を東條首相に進言しました。それまでは自衛目的でしたが、それにアジアの解放目的を付け加えたのです。重光大使は外相になり、アジアの植民地からの参加を呼びかけ大東亜会議を開きアジアの独立宣言をしました。何人もの日本兵がそのまま戦後も残留し、ベトナムやミャンマーやインドネシアなどの独立戦争を戦いました。小生が出会った日本人の方はその残留日本兵だったのです。その方は今では埼玉にお住まいですが、ベトナムに教会を建てるお手伝いをしています。その後、ベトナムに行ったのは中国との戦争直後で、700年間中国に統治され、100年間フランスに統治されたベトナムには親日的な人が多く、中国戦争直後だというのに日本人だと分かると精一杯のもてなしをしてくれました。近年行われたドイモイ政策発令後、1年経ってベトナムの方達が自力で経済復興するだけでなく、世界の一員として共に経済発展をしていこうとする姿を確認しました。しかし民主主義国家でないことには変わりありません。中国とは異なりますが、小生の見るところでは、共産主義であることは現時点で国体において不都合はないし、一般市民の血肉になっているのです。統一戦争を知る世代が実権を握っている限り、徐々に共産主義の根本である「出口の平等」に弾力性を持たせながら国の運営をしていくものと思います。

最後に、ベトナム人は花を愛する国民としても世界有数であると思います。




2002/02/11 磯村信夫