宗教と実利主義


フランスの哲学者ジャン・ギトンはベルグソン(ジャン・ギトンの哲学の師)と同様、近代西欧思想をキリスト教と人類学的汎神論の紛らわしい混合物であるとしている。人類学的汎神論は、広義には“万人は神を認めているが、狭義においては神の存在を疑問視している”ことを言う。例えば、無神論者は神を信じるのをやめ、「絶対者」を信じないと思い込んでいる有神論者のことで、無神論者とは広義の意味においてではなく、狭義の無神論者、神の無神論者に過ぎないのである。
我々も運命の糸やら、世の流れを感ずるに、この不確実性は必然のように思えてならない。そこに広義の神は万人に認められているということができる。それは、人は宗教的な動物であるという証であろう。同様に人は、ジャン・ギトンが言うように、実利的な動物である。すなわち、人は生まれつき宗教的であり、実利的なので、宗教的実利主義と、実利主義的宗教をこの世に作り出している。

この哲学的命題を考えたとき、現代の中国を思った。共産主義が宗教であるとは言わないが、昨年開催された第16回中国共産党の党大会で、中国共産党は階級闘争をやめ、広く国民政党になっていこうとしていることを表明した。それは私企業の経営者も共産党員になれるようにしたことで分かる。中国はドッグイヤーよりも更に変化のめまぐるしいラットイヤーを生きている。自分で事業を起こした方は、外資系に雇われたテクノクラート的な人たちを除き、皆家族を挙げて不眠不休で、激しい競争の中を生き抜こうと頑張っているのである。猛烈な競争だ。共産党員に推薦された経営者の人たちの談話を読むと、経済に対する信仰のようなものを感じる。例えばこうである。贅沢は一切していない。利益は全て事業拡大のための再投資と雇用に使っているとの発言である。中国の経営者は中国人を幸せにするのは経済活動だと信じている。優秀な人たちが経済の世界に入る。そして、殆どの経営者は、角度は違うが、近代資本主義を形作ったプロテスタンティズムと同様の思いを持っているのではないか。




2003/02/17 磯村信夫