花火は夏の花見


3日の土曜日、江戸川の花火を見に行った。ナルシス会の会員で、篠崎の花よしさんの自宅から歩いてすぐのところが河原で、そこを2週間前から場所取りしてもらっていた。

ナルシス会とは、専門店の二世、三世が集まり、僕が顧問で教師となったりして、2ヵ月に一度開催している15人ほどの勉強会だ。自分を好きにならなければ良い仕事はできないと自尊心を持ってもらいながら、他の業態の小売店と伍して自分の店を発展させていこうと頑張っている。百貨店はWay of Life(ライフスタイル)、専門店はQuality of Life、スーパーはCost of Lifeとグルメ、eコマースやカタログ販売、コンビニはTime of Life、ホームセンターはSpace of Lifeをそれぞれ売り物にし、はっきりしたコンセプトを打ち出して消費者にアピールしないと、顧客に支持されないとの仮説から勉強会を開催している。

次回はスーパーマーケットに納品している花束加工業者の方から話を聞き、競争と棲み分けの道を探ることにしている。会員はそれぞれ地域が離れているせいもあって、経営内容や目標などをざっくばらんに明かし合い、お互い成果をチェックしあっている。なかなか難しい世の中だが、打つ手は必ずあり順調に売上も利益も上がってきている。

さて花火というのは、陽気さや、浴衣などのファッションは異なるが、殆ど春の花見と同じだということに初めて気づいた。花見は染井吉野の下で酒を飲むことしか今は一般に行わないが、山に行って、例えば伊豆だと大島桜や関西のものよりもやや花の大きな山桜を見ると、西行の「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」の句がどことなく浮かんでくる。花見客が誰もいなくなった頃、染井吉野の花の下を通ると、そのような心持ちになるが、花火も同様に暗くなった闇を見上げて心にある花火を思い浮かべると、この句のようなあわれさにとらわれる。西行のもう一つの有名な句「心なき 身にもあはれは知られけり 鴨立沢の秋の夕暮れ」があり、盛夏だというのに花火が消えてしまった後、秋の気配が感じられた。




2002/08/05 磯村信夫